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秋の夜長に歌うは童謡 [懐かしい]

小さいころの話だからもう半世紀近く前の話。小学校に上がる前の私はいつも母と家にいた。母は近所の農家の手伝いで家計を助けていた。秋から冬にかけての農閑期は家にいたからよく童謡を歌ってくれた。小さな寒い家の囲炉裏の横に座って聞いた歌は今から見ればどこの国の話だと思うかも知れないほど古いが当時はそれが生活の中にあるものだった。ずいぶん前にも「里の秋」のことを書いた。お父さんは何処にいるのだろうと思っていたが戦地へ行っていたと後でわかった。それ以外にも「旅愁」「あかとんぼ」「ちいさい秋見つけた」など、母の節回しで母の声で聴いた。母が亡くなってもう20が経つ、子はいつまでも子だと思う。
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鉄オタですって? [懐かしい]

民進党党首選の前原候補は鉄オタだそうだ、取材の記者にC57がとか言ったそうだ。別に前は候補の話をするつもりはなく、記者さんには鉄オタでなくてもC57だけでSLとわかって欲しいものだなと思った次第。私もSL好きだが実際に普段乗っていた最後の世代だからこその愛着がある。煙の匂い、遠くから聞こえる汽笛の音、激しい息遣い、停車するときのスチームを吹き出す音と軋む音、真鍮ドアの木の客車、送辞のワックスの匂いどれをとっても懐かしい。子供の頃の身近なSLはC58と86が客車で貨物が96だった、C58は新しく洗練されたフォルムだが86と96は大正時代の無骨な車両だった。支線にはC12が配属されていて往復運転の帰りはバックで使用されていた。また、96の重連でスイッチバックを登るのも力強かった。これだけで住んでいたところの線区がわかってしまう人もいるだろうな。SLは石炭と水を積み込むため駅にいた、日がら眺めているのが楽しみだった。
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8月15日 [懐かしい]

今日は終戦記念日、あれだけ多くの人が死んだ戦争ももうずっと向こうに行ってしまった。多くのものをわがものとせんがための戦いは結局何も得ることのないまま消えてしまった。終戦記念日ではなく敗戦記念日だろう、本当はそうだろう?だが、あの戦いで明治から続いたくだらない帝国が終わり、いまの民主日本がある。懐古趣味で戦前への憧憬はその実も知らないまま胎動を始めている。戦争前の日本はただの悪夢でいまのこの国こそが現実なんだ。時に人は自分こそが正しいと思い自分の国こそが一番であると思いたがる。何処が一番だとかどこが正しいだとかどうでもいいことだ。自分の都合だけで世界を判断してもそれは井の中の蛙。昨年親父が死んで身の回りに本当の戦争体験者が居なくなった、親父は大正の生まれで公務員だった台湾で応召、それから4年間ほど陸軍砲兵隊にいた。機銃掃射されたり田んぼで爆撃機の爆弾を落とされたが泥田で不発弾だった話などしていたが台湾は比較的戦闘が少なかったため、生きて帰ることができた。しかし、本土に引き上げてからの方が大変だったとよく言っていた。あれから70年以上生きていたのだ、もっといろいろな話を聞いておけばよかった。

夏飲料 [懐かしい]

先日、通販でカボスドリンクを48本買った。大分にいるときにはよく飲んでいたがさすがにこちらではなかった。いまのははちみつ入りや粒入りのものなどある。昔より味はマイルドにそれでいて香りと後味はカボスそのものに仕上がっている。1日2本ペースで飲んでいたらあっという間になくなった。子供のころは果実そのものを絞って氷と砂糖でカボスジュースを作っていたが、あまりの酸っぱさに砂糖を足していた。そんな懐かしもあり、あっという間に無くなったので粒入りを注文してしまった。まんまとはまってイル気がする。




夏のいろ [懐かしい]

ヒマワリはまだ小さくて風にゆらゆら揺れている
朝顔は日の高く昇る前に静かに咲いている
路地裏の猫は道這い蹲り大きく息を継いでいる
子供たちの自転車が駆け抜ける
ベルの音も軽やかに
私は日陰のベンチに座りラムネを飲んでいる
こんな夏だったよね
そういう時間だったね
昭和40年代はそうだったよね
まるで絵で描いたようなセピア色の夏

田植えのころ [懐かしい]

昔九州にいたころ田植えの季節がちょうど6月の頭だった。たぶん晩稲を栽培していたのだろう。田んぼに水がてぷてぷと張られ稲がさやさやと風にそよいでいた。丘の上から見るとまるで鏡のようできらきら光っていた。そしてパやパやとした早苗が風になびいては戻るとき鏡は銀と黒のコントラストを作った。そんな道をバイクで走るのはとても楽しくてヘルメットを放り投げたくなった。

ミスチルでカラオケを思いだす [懐かしい]

ミスチルのベストアルバム、古い方をItuneで買ってしまった。時代がわかるなと自分で思いながら、でもこれを聞いたころは既に30代だったから懐かしいようなそうでもないような。この前後でClssとかDeenとかZardなんて聞いてたらみなリズム感と音がほぼ一緒と思った。当時は酒飲んだ後みんなでカラオケ行ってよく歌ったものだった。みな、お得意の歌があって誰かが勝手にそれを入れておくのがお決まりだった。自分はスピッツか浜田省吾がお決まりのようにいれられていた。今は会社帰りに飲んでカラオケなんかにはいかないな。ミスチルのベストを聞きながらそんなことを思い出しました。

春の夕餉に山菜を [懐かしい]

小さいころ母と背負子を担いで山に山菜取りに出かけた。小さく華奢な母が大きな背負子を担いで急な谷筋の山道をすいすい登ってゆく。僕は小さな背負子を背中に一生懸命に追いかけるだけだった。母はその間にもあちこちでゼンマイを折って背負子に放り込んでいく。僕も取れるだけとって背負子に入れる、母から教えられたとおり小さいものと大きな1本は必ず残しておく。谷筋には数は少ないがコゴミも生えておりこれもつんでゆく。日の当たるカヤトまで登ると今度はワラビが頭をもたげているから、これもポキポキと折ってゆく。おおよその目的はワラビとゼンマイだからこれで十分なのだがカヤトを下りて集落の入り口付近には数本のタラの木があるこれも棘に気を付けながら、そして全部取らないように採って帰る。そうして家に帰るとまずはワラビを水煮にする。ぜんまいは根元の部分と胞子と葉っぱ、そして綿帽子をとる。そして茹でてこれを筵の上に広げて干し、保存用とする。こごみとタラの芽はてんぷらにする。そして家の傍の田んぼでは野生のセリが採れるのでこれを摘み、畑の周りではノビルがたくさん取れるのでこれも摘んでおく。ワラビやゼンマイは煮物や卵とじにする、セリは御浸しか鍋に入れる、ノビルはそのまま味噌つけてかじるかてんぷらにする。子供には少し通すぎる山菜の夕餉だった。

病は奥へ [懐かしい]

しかし、病気だらけだな、しかも未病も多い。今治療中のものは双極性障害、糖尿病、高脂血症、前立腺肥大でどれもこれも年齢とともに悪化するものばかり。そしてここ3年PSAと肺がんマーカーは大きく基準値を超えたまま・・・これから何が飛び出すやらわかりません。どれもこれも双極性障害から始まった、最初の症状が出た時、神経内科の入院を勧められたが拒否した、あれが正しい選択だったか今となってはわからない、もしかしたら早期復帰もあり得たのかも。こういうのは悔やんでも仕方がない、今の自分御身の置き所次第で変わるから。

熊本城 [懐かしい]

最近地震から1年がたち熊本城がよくテレビに出る。小学校から高校生にかけてよく行ったものだった。天守閣はコンクリートだったが小西行長の宇土城の天守だったと言われていた宇土櫓やたくさんの他の櫓や扇の勾配の石垣など、そして西南戦争の大砲の弾の跡の残る石やその時の弾であろう鉛の塊を拾ったこともあった。美しく、堅固で絵になる城、清正公さんが執念をかけて作った巨城です。でもなぜだか記憶にあるのは横手五郎の首掛石なのはなぜだろうか?
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